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DORA インタビュー

岩沙弘道氏(三井不動産株式会社代表取締役会長)インタビュー 「人のための都市環境を創造する」【2】

三井不動産株式会社代表取締役会長を務める岩沙弘道氏は、「東京ミッドタウン」をはじめとする数多くのプロジェクトにおいてリーダーシップを発揮され、その成功を導いてきました。
今回、DORAでは岩沙氏に幼少期から三井不動産に入社した経緯、まちづくりのビジョンと実践、そしてDX(デジタルトランスフォーメーション)に伴う社会と都市のあり方などについて、幅広いお話を伺いました。
第2回の今回は岩沙氏が手掛けてきた様々な再開発プロジェクトを中心としたお話が展開されます!

生き生きとした都市に必要な3つの条件

江戸さん*1が米国のデベロッパーのような存在を目指していたと話しましたが、米国の都市とデベロッパーに関するお話をしたいと思います。
私が大学に入学した1961年(昭和36年)、米国でジェイン・ジョイコブズの『アメリカ 大都市の死と生』*2という本が発表されました。この本は私に大きな影響を与えた1冊です。生き生きとした都市に必要な条件とは何か、この本では大きく3つの要素を挙げています。
ひとつ目が「密度ある都市空間」であること。ここで言う密度とは「賑わいと活力」です。ふたつ目は「都市機能の複合性」。要するに都市空間がミクストユース(mixed-use)であることです。1960年代当時、米国では地域毎の用途をゾーニングで厳格に定めていましたし、日本でも全く同じ状況でした。そして最後の3つ目。これは今も欧米の都市が世界で最も先進的だと私が考える要素ですが「ウォーカブルな都市」、つまり歩きやすく、歩いて楽しい都市空間ということです。この3つの要素がないと大都市は死んでしまう。この3つの要素をどのように都市計画に組み込んで実現していくのか。自分にとってバイブルとも言えるこの本から教えられたことが私の原点です。
そうした目線で見るとNYのサウスウエスト、例えばチェルシーなどは、かつて欧州航路でとても栄えて街が賑わっていましたが、その後、航路が廃れてしまうと街が廃墟のようになっていきます。ハーレムも昔は裕福な人たちが住んでいた街でしたが時代と共に様変わりしていきました。
そのように米国において、時代の変化に取り残された都市は荒廃していきます。しかしそうした都市がそのまま駄目になるのかというとそうではなく、デベロッパーが新しい知見とアイデアによってまた蘇らせるのです。こうしたパイオニア精神、チャレンジ精神が米国のデベロッパーにはありますし、これは今後、日本のデベロッパーにも絶対に必要になってくることだと思います。
今ではとても素晴らしい街に再生したチェルシーをはじめ、NYのハドソン川沿いはとても魅力的な場所になっています。この延長線上に、今私たちが手掛けている「50ハドソンヤード」*3の敷地があります。

[注]
*1 江戸英雄(1903~1997年):三井不動産社長・会長。1927年三井合名に入社。1947年三井不動産に入社し、1955年に社長、1974年に会長に就任。臨海工業用地造成をいち早く手がけ、全国で埋め立て事業を展開、また大規模な宅地造成などにより、三井不動産を業界トップに育てた。東京ディズニーランド®や筑波研究学園都市の建設にも尽力した
*2 日本語版は鹿島出版会刊。2010年に山形浩生訳による全訳の新版が刊行されている
*3 三井不動産が手掛けているニューヨーク・マンハッタンにおけるオフィスビル開発事業。これはマンハッタンにおける過去最大の複合開発「ハドソンヤード再開発」(合計約11ha)におけるオフィスビルの開発事業という位置付けであり、マンハッタンにおける単体オフィスビルとしても最大級の規模(延床面積約264,000m2)。総事業費は4,000億円超(1ドル=108円)で、同社の事業シェアは9割。竣工予定は2022年

ジェイン・ジョイコブズ著『アメリカ 大都市の死と生』(鹿島出版会刊)。画像は2010年刊行の新版

「50ハドソンヤード」のイメージパース(© 三井不動産)

ハドソン川側から見たハドソンヤードのイメージパース(© 三井不動産)

ウォーターフロント再開発の先駆け「大川端リバーシティ21」

NYのハドソン川は、東京で言えば隅田川のような存在です。隅田川沿いも、昔は建物が川に向かって表を並べ、桜と柳が植えられた土手で、人々が花見や夕涼みなど季節毎の楽しみ方をしていました。それを見物するために、地方からも人が足を運んだそうです。
その魅力的な隅田川の風景も戦争の頃からカミソリ堤防となり、川の方は資材搬入などに利用する裏口的な表情となり、工業用途的な風景になっていきました。こうした隅田川沿いを再び魅力的な水辺空間へと変えたのが「大川端リバーシティ21」(~2010年)です。
1979年(昭和54年)東京都知事に「マイタウン構想」を掲げた鈴木俊一氏*4が当選し、「大川端リバーシティ21」はその構想のモデルプロジェクトとなりました。
プロジェクトが動きはじめて、私と同期の林君のふたりが担当になりワーキンググループに参加しました。それである時に鈴木知事から「マイタウン東京のシンボルになるのは何だろうか?」と質問された私は「東京は江戸時代にできた街です。その江戸の街の代表的な風景が大川端の綺麗な桜の土手、舟遊び、橋といったものです。そうした水辺の潤いを取り戻すことこそ、マイタウン東京のシンボルになるのではないでしょうか。そのためにはまず隅田川の水を綺麗にしなければいけません。下水の浄化処理や洪水時に汚水管が溢れないように地下に遊水槽も必要です。そうしたこともきちんとやらなければいけません」と申し上げました。
鈴木さんは「それは良いね、君たちの言う通りだ。やっぱり若い人に知恵を出してもらうのが一番だね」と(笑)。立派な方でしたね。
事業地である佃地区は、開発前は橋が架かっておらず、渡船場があって船で渡る陸の孤島のような場所でした。ここに石川島播磨重工業の東京工場や三井記念病院の宿舎などがあったのですが、これを一体にして、さらに隅田川を挟んだ対岸の新川にあった日本住宅公団(現:都市再生機構)の土地も含め、新たに橋を架けて再開発を行いました。
超高層住宅・オフィス・商業施設などが混在するミクストユースの街は、軸となるセントラルロードが通り、公園や従前のカミソリ堤防を撤去してつくった親水性の高い水辺空間を備えた街になりました。
この「大川端リバーシティ21」は三井不動産としても大きな転換点となったプロジェクトでした。ここで経験した市街地再開発事業をその後、当社の事業の柱にしようということで開発企画部という部門もできました。
市街地をある程度まとめて大規模開発することで、より多くの住民が住むことができ、商業施設やオフィスも備えたミクストユースで、職住近接の街を実現しようということです。
また、この頃から日本の社会では産業の高度化がさらに進み、臨海工業地域など都市部にあった製造業が地方に移転するため、工場用地が空くという状況がみられるようになってきました。川崎市の溝の口エリアなどがその代表例ですが、このような状況は地域にとっては大問題です。そこでそれらの空地を開発してインフラを再整備し、生活者のための商業施設や文化施設、保育園なども含めて開発するプロジェクトを手掛けるようになっていきます。近年の例で言えば、「武蔵小杉の再開発」などはこれに該当しますね。元々、武蔵小杉は京浜工業地帯の一角として工場や社宅が多いエリアでしたが、こうした工場が県外に移転し、駅近辺に多くの空白地帯が生まれました。そこで川崎市が「都市計画マスタープラン小杉駅周辺まちづくり推進地域構想」に基づいたまちづくりの方向性を示し、私たちも民間として参加しながら、官民一体となった「歩いて暮らせるコンパクトなまちづくり」が計画的・段階的に進められています。

[注]
*4 鈴木俊一(1910〜2010年):政治家・東京都知事。1979年、「都財政の再建」と「マイタウン構想」を掲げて東京都知事に当選し、その後4期16年を務めた

隅田川越しに見る「大川端リバーシティ21」。右手は中央大橋

隅田川沿いに整備された水辺空間

近年大きな発展を遂げた武蔵小杉の街並み。正面の3つのタワーは「パークシティ武蔵小杉」

「大崎・五反田29ha地区」の再開発

1980年代の半ばからまたひとつ、大きなプロジェクトが動き出しました。それが「大崎・五反田29ha地区」(〜2015年)の再開発です。これは山手線とソニー通りに囲まれた29haを、三井不動産が中心となり、地域の方々と一緒になって再開発したプロジェクトです。
1982年(昭和57年)に、東京都が策定した副都心*5に大崎などが追加され、バブル崩壊前からこのエリアはそれに相応しいまちづくりの必要性が求められていました。しかし東京都が新宿などの整備に手一杯で開発があまり進んでいなかったこの地域に、私は注目しました。
たまたま鉄道に詳しい知人から「将来的に大崎は首都圏全域から一本で来ることができる、広域鉄道網のターミナルになる構想がある」という話も聞いて、私はぜひここで三井不動産の次世代型まちづくりを実践したいと思いました。
「大崎・五反田29ha地区」プロジェクトの大きな特徴は、何と言っても地権者の多い既存の街の再開発という点です。先ほどお話した「大川端リバーシティ21」など、それまでのプロジェクトの多くは工場跡地などの再開発でした。あれだけの規模で実施した既存の街の市街地再開発事業は初めての挑戦でした。
このような市街地再開発事業で重要となるのは、地権者の方々との合意を如何に形成するかという点です。そこがきちんとできず時間を要すると事業が進められず、どうしてもプロジェクトが長引きます。
大規模市街地再開発で、対象エリア全域の全員同意を前提にすると、実現はほぼ不可能となってしまいます。そこで、ある区域を都市計画上先行的に定めて、そのなかでガイドラインや個別の規制内容を決め、整備計画を立てて、できるところから段階的に再開発を進めていく方式を、私たちは当局に提案していたのです。その結果、産業構造の変化にともなう大規模空閑地の再開発手法として1988年(昭和63年)に創設された「再開発地区計画制度」の適用が図られ、その第1号となったのです。再開発地区計画では、従来の準工業から商業への用途地域変更と高度利用地区の指定による容積割増しの積み上げによる計画容積と同等の容積を確保したうえで、柔軟な規制を行うことができるように計画が定められました。
地域の地権者の方々と最初に色々お話を伺ってルールを決めて、後から入ろうとする地権者の方はそのルールに則る必要があるということです。そうして1990年代に入る少し前に大枠の合意に漕ぎ着け、バブル崩壊後に計3回、権利変換を行いました。
これは大変な作業でしたが、その中で私が感じたのは皆さん自分や自分の会社の利益だけを考えているのではなく、この街を良くしたいという強い信念をもってらっしゃったということです。土地神話に誰もが踊ったバブルの直後、皆が本当に苦労している様子を見ていましたから、計画をしっかり前に進めていくことに感謝をされました。

[注]
*5 副都心:東京都が策定した副都心は新宿、渋谷、池袋、上野・浅草、錦糸町・亀戸、大崎、臨海の7つ

「大崎・五反田29ha地区」の空撮

「大崎・五反田29ha地区」の街並み

沿道型の賑わいをつくる

プロジェクトを進める中、私が地元の方々との勉強会で言ったのは「まず民間主導の“自助””共助”でこの副都心づくりをやりましょう。そこに“公助”として行政を巻き込んで公園や街路、学校などを整備しましょう」ということです。この地域になぜ再開発が必要になったのかと言うと、それは時代の変化と共に新しい産業用途に合わなくなったからです。だから民間が主導して新しい時代のステージになるような次世代型のまちづくりが重要だという想いがありました。
そのように民間として積極的にまちづくりに貢献した一例が歩道です。この地域には4つの大きな通りがありますが、これらの通りに民間が少しずつ土地を出すことで広い歩道を実現しています。さらに建物を低層部と高層部に分けて、高層部をセットバックすることで歩行者に圧迫感の少ない街並みを実現しています。
こうして「大崎・五反田29ha地区」は、ウォーカブルで沿道型の賑わいのある、ミクストユースの街として実現しました。

歩行者に圧迫感が少なく、かつ変化に富んだ「大崎・五反田29ha地区」の街路

カフェのテーブルなどが出されることを考慮して広い歩道が整備されている

名所となった目黒川と桜

この街については沿道型であることのほかに、もうひとつ目黒川の重要性についても触れたいと思います。この地区には目黒川が流れていますが、元々この辺りは低湿地帯で、かつては頻繁に洪水の被害を受けていました。そこで再開発時に「大川端リバーシティ21」同様に地下に遊水路をつくったことで、目黒川が氾濫しなくなりました。
さらに川沿いに桜を植えて、船入場のある親水公園なども整備して、人々が水辺の潤いや季節の移ろい、様々なイベントなども楽しめるような街を目指しました。
現在、この目黒川沿いは名所となり桜の季節などはとても賑わっていますね。目黒川を船で上がって桜を楽しむクルーズもあります。このようにこの目黒川は「大崎・五反田29ha地区」の価値を大きく高める存在となりました。
ただこのプロジェクトで私がもう少し主張しなければいけなかったなと今思っているのは、商業や文化施設をさらに充実させるべきだったということです。副都心ですからそうした賑わいがよりあった方が良かったですね。

目黒川沿いの桜並木とクルーズ船

目黒川沿いの賑わい

目黒川沿いに設けられた公園

新時代のデベロッパーへ

バブル崩壊の話が出ましたので、少しそれに関わる話をします。バブル崩壊により、当社でも本業以外に投資したものの処理が大きな問題となりました。それが1995年(平成7年)から翌1996年(平成8年)のことで、ちょうど私が取締役になり経営にも関わるようになった頃です。
当時の私は米国の不動産市場の法規制やルールを勉強していたのですが、それも踏まえて「日本の諸悪の根元は右肩上がりの経済を前提にしていたことだ」ということを痛感しました。高度経済成長以降の約30年間、その成功体験が染み付いてしまい、問題を先送りしてきたことが今回の結果だと考えました。
ただ1990年代は欧米の景気が良く、日本はそれらの国々への輸出によって実質経済成長は続いていました。だから周りの人は「待てばそのうち良くなるよ」と楽観視していましたが、私は今回の事態は容易ならざる状況だと思っていました。住宅というのは人々の生活が掛かる重要な役割を担っていますので、バブルの負の遺産を自助努力で早期に片付け、新たな時代に相応しい会社へと構造改革を進める必要性を感じ、それを実践していきました。

21世紀のモデルとなる「東京ミッドタウン」

さて、先ほどの「大崎・五反田29ha地区」の嚆矢となる「ゲートシティ大崎」(1999年)を苦労してやり遂げた頃、当社でも「これでひと段落だ」という雰囲気がありました。しかし私は「いや違う、大崎は“ゲートシティ”、つまりここから先が当社の再開発事業の勝負なんだ」と皆に発破をかけていました。
そうした中、2001年(平成13年)にスタートしてその7年後に完成させたのが「東京ミッドタウン」(2007年)です。防衛庁跡地を払い下げていただいた土地でしたので、「ここで21世紀の日本のモデルとなるような都市再生をしたい」という想いで取り組んだプロジェクトです。
このプロジェクトは当社を含む6社のコンソーシアムで事業費を調達するというもので、様々な資産運用を担う投資家を巻き込んで行った都市再生の新しいモデルとなりました。良いプロジェクトであれば社会から資金を集めて実現できるということを証明したのです。
このようにこれまで様々なプロジェクトで培ってきた信頼関係や開発手法を用いて実現したこの街は、オフィスや商業施設だけでなく、文化施設も充実したミクストユースで多様性に富んだものとして完成しました。
またコンセプトのひとつに人と緑が共生する空間「ON THE GREEN」を掲げ、アクティブもパッシブも含めた多くの環境配慮技術を導入しています。
【3】に続く

「東京ミッドタウン」竣工時の空撮(© 新建築社)

岩沙弘道(いわさ・ひろみち/三井不動産株式会社代表取締役会長)

1942年愛知県生まれ。1964年慶應義塾大学法学部卒業。1967年三井不動産株式会社入社。1995年同社取締役。1996年同社常務取締役。1997年同社専務取締役。1998年同社代表取締役社長。2011年6月 同社代表取締役会長。

https://www.mitsuifudosan.co.jp

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