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研究室探訪

“プロフェッサー・カーペンター”が仕掛ける手づくりのまちづくり

まちづくりに関係する大学の研究室などにお邪魔して、その活動をご紹介するこの連載。第1回目は新潟大学工学部建設学科、西村伸也先生の研究室に訪問した。
西村先生は、伝統的な雪よけ屋根である“雁木”(がんぎ)を整備するプロジェクトなどを中心に、20年以上に渡って地域住民と学生が一緒に取り組むまちづくりに携わってきた。「それぞれのプロジェクトに、どこもやっていないような工夫を織り込みたい!」と話す西村先生にこれまでの取り組みを伺った。

研究室Webサイト: http://nishimura.eng.niigata-u.ac.jp/

まちづくりと大学カリキュラムの融合

新潟大学工学部建設学科は、新潟市西部に位置する五十嵐キャンパスにある。東京ドーム約13個分という広大なキャンパスの一画にある研究室で迎えてくれたのは、教授の西村伸也先生と助教の棒田恵先生。
西村研究室では長年、長岡市栃尾表町で伝統的な雁木(がんぎ)通りの再生を行う“雁木プロジェクト”、そして三条市内に住民の憩いの場となるポケットパークをつくる“三条ポケットパーク整備”という、大きくふたつの活動を展開してきた。こうした活動に共通するのが、環境の中で使われ続けるものを、行政や専門家の協力の下、学生が地域住民と協働しながら、教育の一環として計画・デザインから建設までつくり上げる”という点である。この特徴ある活動の源流は今から20年以上前に遡る。

西村伸也先生(左)と棒田恵先生(右)

長岡市栃尾表町における“雁木プロジェクト”

三条市における“三条ポケットパーク整備”

街と継続的に関わる

雁木。それは積雪期でも往来できるように、通りに面した民家の庇を歩道まで延長してこれを連ねた、新潟県内に見られる伝統的な雪よけ屋根である。
「長岡市栃尾表町でまちづくりに関わるようになったのは1997年です。それ以前の1990年代半ばまで、私はHOPE計画*をはじめとするいくつかのまちづくりプロジェクトに参画していました」と西村先生は話す。(以下、特記以外の「」内は西村先生)
HOPE計画とは、地域毎の特徴を活かしたまちづくりを目指して、建設省(現:国土交通省)がその補助事業として1982年にはじめたもので、多くのプロジェクトは自治体や建築設計事務所、そして大学の先生が入り、地域住民と話し合いをしながら計画を推進するというスタイルであった。
「これらはとても意義あるものでしたが、各プロジェクトは予算の関係から3~5年で区切りになりますので、計画案まではつくられるものの実際に何かがつくられるまで至らないというケースもありました。まちづくりはその地域に住む人々の生活環境をつくっていくことなので、安全性をはじめ、細かな部分にまで配慮した丁寧な仕事の積み重ねが欠かせません。だからひとつの地域の環境づくりに継続的に関わり、実際につくることを通して住民の方々に貢献したいと常々考えていました。またその頃、“大学の地域貢献”が社会的に求められていた中で、私自身がこれにどう応えていくのかという課題にも直面していました」。
そうした想いを胸に秘めていた西村先生は、それまでのプロジェクトを通じて親しくなった長岡市栃尾表町の長老と同市の関係者に思い切ってこう相談する。
「私に何かつくらせてくれませんか。私はつくることが大好きなプロフェッサー・カーペンター**なんです!」と。すると砂防ダム工事に伴い、同町の神社にあった樹齢150年の杉2本がちょうど伐採されたと言う。そこでこの木を製材してもらい、各家の屋号看板を学生たちがデザイン・制作するというプロジェクトが実現した。
「神社の御神木を看板として町の各家に返そうというコンセプトです。大学の講義の一環として行ったこの屋号看板プロジェクトがこの町の皆さんとまちづくりをはじめるきっかけになりました」。

町の各家に設置された屋号看板

欄間のようにデザインされた看板

先代までの家業であった養蚕と家紋を取り入れたデザイン

コンペ形式で雁木をつくる

長岡市栃尾表町のメインストリート

「1998年度、1999年度と続いた屋号看板プロジェクトは、2年で計24個を制作したところで材木がなくなりました。そしてこれに続くかたちでスタートしたのが雁木プロジェクトです」。
多雪地域である栃尾表町は、蛇行したメインストリートの両側に雁木通りが軒を連ねていた。しかし当時、あるところは家の建て直しによって、またあるところは老朽化で取り壊され、そのところどころが途切れた状態であった。雁木プロジェクトはこうした場所に毎年1棟づつ雁木を制作する、学部3年生の建築計画演習の一環として行われることになった。またその制作においては、1997年のまちづくり計画案作成時に考案された“よったかり”(この地方の方言で“人々が集い会う”という意味)というテーマを踏襲して、“よったかりの場”としてつくることがコンセプトとして掲げられた。
プロジェクトは毎年4月に町の人たちが新潟市のキャンパスまで足を運び、栃尾表町と雁木について学生に説明し、5月に学生たちが実際に町を訪れるところからはじまる。そこで6~7人の学生と住民2人というチームを7~8程度つくり、各チーム毎に案を詰めていく。そして夏休みを挟んだ9月後半に全チームが自分たちの計画を町民に発表するデザインコンペティションが行われ、その後2週間の模型展示期間を経て、全町民だけの投票で実施案を決めるという流れである。
「町民の方も参加いただくチーム制にしたこと。そして全町民の投票によって実施案を選定する方式にしたところがポイントです。実際にこの町に住む人々の想いや細やかな配慮をプロジェクトにどうすれば織り込めるのかを考えました。また学生側も町のさまざまな方とコミュニケーションをとる中で、どうしたら自分たちのプロジェクトを上手く進められるのかを考える訓練にもなります」。
ちなみに助教の棒田先生もかつて学部3年生としてプロジェクトに挑んだ一人。
「私が参加したチームの案は3位で、残念ながら実現できませんでした」と笑う棒田先生はその後、大学院時代に学生のサポート役として、また教鞭を執るようになってからは西村先生と共に指導する立場からこのプロジェクトに関わり続けている。

学生が住民の方々と行う敷地調査や計画案の検討(6~8月)

デザインコンペティション(9月)

選定された案は地元の大工・工務店などの専門家を交えた調整が行われた後、施工される(10~3月)

プロジェクトの進化と広がり

こうして2000年にはじまった栃尾表町での雁木づくりは、その後毎年実施される中でさまざまな工夫や調整が重ねられ、そのシステムをアップデートしていく。そのひとつが“プレーオフ制度”の導入である。
「学生たちが中心となって案を考え、町民の皆さんの投票によって実施案が決められる。これは基本的に良いシステムなのですが、稀に建築の専門家から見て、そのまま実現してしまうと景観やコミュニティのあり方として問題になりそうな、“建築として実現すべきでない案”が1等に選ばれるということが起こります。そこでそうした場合の対処について考える必要が出てきました」。
そこで考案されたのが、当時プロ野球で話題になっていた“プレーオフ制度”の導入である。約半年間の活動と町民の投票結果を経て1位になった案には権利があるものの、そのままのカタチでは問題がある。そこでこうした場合は1~3位の案で再度決戦投票が行われ、この投票では市や区長、まちづくりの住民代表、施主、そして大学がそれぞれ1票をもち、話し合いながら決めていくというかたちで、専門的な見地が反映されるシステムへと調整が行われた。
こうして新たな雁木が増えていく中で、本プロジェクトは新潟大学以外の教育機関にもその輪が広がっていく。
「こんなに面白い取り組みはどんどん開いていった方が良いと思ったんです。県内の大学や高校だけでなく、海外から中国の大連理工大学にも参加してもらいました。実は一番新しい雁木は彼らの案なのです」。
他にも地元小学校の総合学習の一環にもこの活動が取り上げられ、雁木通りの見学や地域の住まい訪問、雁木づくりの現場訪問などを経て、実際に小学生も雁木の模型をつくる授業が行われている。
こうして現在までに栃尾表町のメインストリートに合計18個の雁木が加わり、この町の伝統的景観を地域の大きな財産として再構築している。
「こうした活動への参加を通して、町の方々も地域の歴史や文化を再発見し、次の世代に伝える機会になったようです」。
大学の講義の一環として、継続的にまちづくりに関わるこの特徴的な活動は行政や専門機関からも高い評価を受けており、国土交通省、総務省、そして日本建築学会などから多くの表彰を受けている。

2002年度「円相の雁木」。梁に幔幕を張ることで駐車場が野点のための空間にもなる

2005年度「柚木の雁木」。一部に新潟県中越地震で傷ついた民家の古材を利用している

地元の栃尾南小学校の総合学習の様子

町に“里山の窓”をつくる

栃尾表町で雁木プロジェクトを展開する中で、学生と住民が一緒になって進めるこの新しいまちづくりに西村先生は面白さと可能性を感じる。
「学生は小さな建造物をつくることを通して実際のまちづくりや建築設計にも通底する貴重な経験ができます。また住民の方々も自分の孫くらいの子たちと町の未来を考え、一緒につくっていく機会をとても楽しんでいただいているように感じました。そこでこうした取り組みを別の場所でもやってみようと2007年にスタートのが三条ポケットパーク整備です」。
これはJR高架下の緑道沿いに点在していた小さな空き地を、毎年1カ所ずつ小さな公園として整備するというもの。こうした緑地は通常、造園業者から購入した洋木を中心につくられることが多いが、ここでは“環境の窓”としてこの地域の里山から木々や草を移植して公園をつくっている。
「これがこの計画における新しい挑戦です。山の木々は風雪に耐えて生えていますので園芸品種と違って均衡の取れた佇まいではありませんが、その部分を愛でれば良い。里山で花が咲いている季節に、梺の町の小さな緑地でも同じ花が咲いているという状況をつくりたかったのです。ここは通勤通学で通る人も多いので、日々のちょっとした瞬間に里山の自然を感じてもらえると良いですね」。
またこのコンセプトの背景について棒田先生がこう補足する。
「三条市は2005年に3つの市町村が合併して、中心市街地と田園地帯、そして里山のある新しい街として生まれました。少し前まで隣町だった里山から町に緑をもってくる。この活動を通してひとつの地域にしたいという意図もありました」。
地場の草木だけを用いる緑地は環境面でも望ましい。またこのプロジェクトは大学院生向けのものとして位置付けられたが、こうした活動を通して専門分野の建築だけでなく、ランドスケープや造園にまで大学院生たちの視野が広がるという教育的側面も興味深い。
「山に分け入って木を選び、根回しをするという行為は、人間本来の狩猟本能が満たされてとても楽しいんですよ(笑)」と西村先生は笑う。

三条ポケットパーク整備もコンペティション形式で実施案が決定される

地元里山に入り使用する樹木を選定

完成後、数年を経て草木が馴染んだポケットパーク

コミュニティの再構築に必要なもの

“雁木プロジェクト”や“ポケットパーク整備”など、地域のちょっとした公共的空間をつくる活動を展開してきた西村先生は、これまでの活動をこう振り返る。
「まちづくりの力というのは、いろいろなところから出てくるんだと実感しています。こうした活動を長く継続できたのは、いろいろな立場の人が面白いと感じてこれらの活動に加わり、その時間を共有できたことが鍵だったと思います。そういう人と人との繋がりがベースにありました」。
そうした繋がりの第一はもちろん地域の人たちとの関係。まちづくりはその過程でさまざまな困難に直面する。深い信頼関係がなければそうした時期を乗り越えることはできない。若い学生たちの話に耳を傾け、気軽に家に招いて食事するような寛容さがある地方のコミュニティだからこそ実現できた部分もあると西村先生は考えている。
また大学側については、講義というかたちにして、研究室だけでなく学生や院生と一緒になってやったことも成功の大きな要因だったそうだ。地域の人々が大学を受け入れ、共に活動する素地となる理想的な関係を育むうえで、学生たちの好奇心が大きな役割を果たしたと言う。
「かつて雁木は雪国のコミュニティの中で住民が力を合わせてつくり、維持されてきました。現代のまちづくりも同様で、そこに住む人たちが自分たちの生活環境について、その力の一部を出していくことがとても重要だと思います。それが一過性の活動ではなく、コミュニティをつくっていくということだと思います」。

時代を映すまちづくり

「これまでの活動は、地方大学の社会貢献のあり方として、ひとつのモデルをつくることができたと思っています。しかし最初の看板づくりから20年以上が経った現在、こうした活動はある変わり目を迎えています」。
町や行政、そしてさまざまなかたちでまちづくりに協力してくれる人々。時代や人が移り変わる中で、大学も棒田先生のような次の世代が、今“大学の地域貢献のあり方”を模索していた90年代の西村先生と同じ立場にあるのだ。これまでのプロジェクトで西村先生は常に「まだ誰もチャレンジしていないこと」をコンセプトに組み込むことを重視してきた。棒田先生は「それは時代の状況を特徴化すること」と言う。
「雁木プロジェクトもポケットパーク整備も、町に大きなプランを描くのではなく、ちょっとした空間の環境向上を継続することで、歳月が経った時にそれが大きなストーリーになるというところが面白いんです。そういう部分を引き継ぎながら、西村先生のようにその時代が必要としていることを自分なりに織り込みながら良いまちづくりに貢献していきたいですね」と棒田先生は語ってくれた。

栃尾表町の住民宅で案を検討する様子

研究室で指導する西村先生

西村研究室の皆さん

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