三井不動産株式会社代表取締役会長を務める岩沙弘道氏は、「東京ミッドタウン」をはじめとする数多くのプロジェクトにおいてリーダーシップを発揮され、その成功を導いてきました。
今回、DORAでは岩沙氏に幼少期から三井不動産に入社した経緯、まちづくりのビジョンと実践、そしてDX(デジタルトランスフォーメーション)に伴う社会と都市のあり方などについて、幅広いお話を伺いました。
戦後の経済復興期から現代、そして未来に至るまで、貴重なお話を全3回に渡って掲載します!
名古屋で生まれ育ち、東京へ
私は1942年(昭和17年)に愛知県の名古屋で生まれ、父親が教師をしていた関係で小さい頃は覚王山日泰寺や東区白壁のあたりで暮らしていました。その後、戦争が激しくなると両親の実家があった一宮に疎開し、そこで育ちました。
その後、中学の時に名古屋に戻ってきて、愛知学芸大学附属名古屋中学校(現:愛知教育大学附属名古屋中学校)に通いました。中学時代の同窓生に月尾嘉男さん(東京大学名誉教授)がいます。高校は愛知県立明和高等学校に通いました。
高校を卒業した1961年(昭和36年)、慶應義塾大学法学部に進学しましたが、これは東京に憧れがあったからです。今の若い人と同じですね(笑)。
都市の住宅問題に対する関心
大学時代は所謂「木賃アパート」に下宿していました。お隣には工員の方が家族4人で、またそのお隣にはタクシーの運転手さんが家族3人で、私と同じ六畳一間の間取りで暮らしていました。当時は地方からの人口流入により東京など都市圏の人口が急増していましたが、その住宅事情は非常に厳しいものだったのです。
こうしたことから、私は都市部で働く人たちの住宅問題に関心をもっていきました。当時、地方から出てきた人が結婚して都市部で住まいをもとうと考えたとき、その選択肢は日本住宅公団(現:都市再生機構)か、自分の勤める会社の社宅、公務員の場合は官舎という状況でした。郊外には建売もありましたが当時はまだ割賦販売のみで、住宅ローン*1はありませんでした。
一方でNYやロンドンに目を向けると、コンドミニアムや分譲賃貸など様々な住まいのかたちがあり、私はそうした欧米の事例を踏まえて新しい時代の不動産所有のあり方について、大学院に進んで研究することにしたのです。友人たちからは「就職もせず、“道楽院”に行くのか」と言われましたが(笑)。
ちょうど1962年(昭和37年)に区分所有法*2が制定されたことにより、この頃から日本でも都市で働く人が快適な住まいをもてるよう、都市空間の有効利用に関する模索がはじまりました。そして三田祭におけるゼミの展示が「日本にハイライズのマンションを導入したら、どのような暮らし方ができるのか」というものでしたので、私も区分所有法について勉強をしました。
ちなみにこれは私が社会人になった後のことですが、マンションの住宅ローンという仕組みを考案したのは私と仲間たちなんです。当時、大蔵省や住宅金融公庫、不動産業界など様々な分野で働く若者が夜な夜な神楽坂に集まって、「これからの都市のあり方」について議論をしていました。そうした中で「欧米のようなローン制度がないといけない。これがあれば地方から都会に出てきた人も良い住まいを得ることができるようになるし、それが日本の健全な市民層の育成にも繋がる。また金融業界にとっても新しい市場が開拓でき経済的に成長できる」というようなかたちで、仲間たちと議論を重ねたことが後に制度としてかたちになっていったのです。
[注]
*1 割賦販売と住宅ローン:割賦販売は購入者と業者間の2者間の契約。ローンは購入者と金融機関、業者の3者間の契約となる
*2 区分所有法:正式名称は「建物の区分所有等に関する法律」。一棟の建物を区分して所有権の対象とする場合の、各部分ごとの所有関係を定めるとともに、その敷地と建物等の共同管理について定めた法律である
日本の高度成長と江戸英雄氏
ここで少し私自身の話から離れて、1960年代に至るまでの日本の状況についてお話したいと思います。
わが国は戦前、銀行が中心になって経済や産業を回していましたが、戦争の結果その基盤をすべてを失ってしまいました。1945年(昭和20年)の終戦以降、戦後の混乱の中で、国民誰もが銀行に預金できるような余裕もなかったため、政府が集めたお金を復興に必要だった重化学工業やエネルギーに重点的に割り当てていきました。このように戦後のどうにもならなかった時代に、なんとか製造業で日本を豊かに発展させようとしたわけです。
貿易立国の日本は、原料を輸入して、加工により付加価値をつけて輸出します。そのコストをできる限り抑えるためには、原料が入った場所で加工するのがいちばんです。そこで大都市の沿岸部を埋め立てて、臨海工業地帯を整備していったのです。
そのような中で、様々な企業や人を巻き込みながら、日本の発展のために臨海工業地帯整備の旗振り役を担ったキーパーソンのひとりが三井不動産の江戸英雄さん*3です。
こうして京浜・中京・阪神などの臨海工業地帯が発展していったわけですが、そこに団塊の世代を中心とする地方の余剰人口が呼び込まれ、1950年代半ばからの高度経済成長期における太平洋ベルト地帯の形成へと繋がっていきます。
「これからの日本は大都市に集まってくる人材を活かして付加価値の高い、国際競争力のある製品を製造していかなければならない」。江戸さんはこうした信念をもっていました。
[注]
*3 江戸英雄(1903~1997年):三井不動産社長・会長。1927年三井合名に入社。1947年三井不動産に入社し、1955年に社長、1974年に会長に就任。臨海工業用地造成をいち早く手掛け、全国で埋め立て事業を展開、また大規模な宅地造成などにより、三井不動産を業界トップに育てた。東京ディズニーランド®や筑波研究学園都市の建設にも尽力した
新しい都市像を打ち立てた「霞が関ビルディング」
このように製造業の発展から日本の成長を考えていた江戸さんですが、都市に目を向けるとその頃の都心は関東大震災の教訓による31m規制*4などが厳しく、建物の容積が取れないことから極めて過密で、道路の広さも十分に取れないような状況でした。こういった都市環境では様々な産業が進化・発展することが難しい。これを変えたのが「霞が関ビルディング」(1968年)です。
江戸さんは「米国はなぜあんなに発展しているのか。それは魅力のある都市の力というものが大きいのではないか」と考え、国土の小さな日本こそ、都市化・高層化が必要だと考えました。
そこで「霞が関ビルディング」を突破口に、東京の街を当時世界最先端だった米国のNYやロサンゼルス、シカゴのような街にしていこうとしたわけです。
少し話を遡りますが、今「東京ミッドタウン日比谷」(2018年)が建っている敷地に「日比谷三井ビルディング」(1960年)という建物がありました。明治から大正時代、この場所には三井合名が海外のお客様を迎えるための施設があり、隣には有名な「鹿鳴館」(1883年)が建っていました。その場所に戦後建設されたのが、日本一大きな剛構造のオフィスビルであった「日比谷三井ビルディング」でした。
この辺りは江戸城ができる前は入江(日比谷灘)だったという軟弱地盤のため工事が難しかったのですが、「これからは土木だけでなく建築にも注力していきたいから是非この工事を当社でやらせて欲しい」と鹿島守之助さん*5が江戸さんにおっしゃって、鹿島建設が見事に工事を成し遂げてくれたそうです。
[注]
*4 31m規制:1919年に制定された市街地建築物法(建築基準法の前身)において、住居地域以外の用途地域では建物の高さが100尺(後に31m)に制限された。1970年の建築基準法改正で容積制が全面導入され、撤廃された
*5 鹿島守之助(1896~1975年):鹿島建設会長。参議院議員。外交官。鹿島建設の経営革新と建設業の近代化に努めた他、外交官・政治家としても活躍。文化振興にも尽力した
この「日比谷三井ビルディング」が終わった後、「東京の都市のあり方を変えよう。そのモデルとなる事業をやりたい」と江戸さんは「霞が関ビルディング」のプロジェクトに取り組みはじめます。
ちょうどその頃、東京大学教授の武藤清さん*6の研究室が、地震国日本では不可能とされていた超高層建築を可能とする柔構造理論を打ち立てていました。江戸さんはこの理論に大きな刺激を受けて柔構造研究会をつくり、そこに鹿島守之助さんも入りました。
また同時に江戸さんは先進的な都市づくりを実現すべく、政府に規制緩和を働きかけました。江戸さんは説明する相手に、卓上の大きなマッチ箱を横向きに置いて「今の剛構造のビルはこれだけの土地が必要になる」と切り出し、次に箱を立てて「これを超高層化したらこれだけの空地ができる。それによって道路を拡げたり、緑の公園をつくることもできる。建物の下に駐車場をつくれば歩車分離もできる。東京の街は変わるよ」と説明したそうです。こうして政界や経済界も含めて「江戸さんの霞が関プロジェクトはこれからの日本にとって重要だ」というコンセンサスができていきました。その結果、本プロジェクトは「将来の日本の手本になるようなまちづくり」として、1961年(昭和36年)の都市計画改正によって導入された特定街区制度を利用して特例的に超高層の建設が認められます。そして後の建築基準法の改正へと進んでいくのです。
このように計画が進んでいったのですが、実際に日本初の超高層建築を建てるとなると、様々な分野で新しい研究を重ねる必要がありました。柔構造の建物は剛構造の建物とまったく違います。例えば外壁はカーテンウォールにしなければいけない。またそれまでのビルのような冷暖房ではなく、温度・湿度・気流・清浄度を整えて空間に均一に分布させる空気調和システムが必要になる。エレベータも群管理ができる高速エレベータが必要になり、動線も考えなければいけない。火事の時に消防車では対応できないからスプリンクラーを開発しなければいけない。
このように「霞が関ビルディング」は日本初の超高層ビルとしてだけでなく、日本の様々な分野の製造技術を高めた一大プロジェクトでした。そこには現代にも繋がるようなノウハウがたくさん詰まっています。先頃、竣工50周年を迎えましたが、「霞が関ビルディング」は昭和の重要文化財とも言うべき存在だと思います。
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*6 武藤清(1903~1989年):建築家。構造家。耐震構造や地震工学に取り組み、木造五重塔の耐震性に注目して、超高層建築を可能とする柔構造理論を打ち立てた。東京大学を退官後の1963年、鹿島建設副社長に就任し、「霞が関ビルディング」の構造設計を行ったほか、多くの超高層ビルの構造設計を担当した
江戸さんと出会い三井不動産に入社
ここまで江戸さんに関わるお話をさせていただきましたが、大学院生だった私の話に戻りたいと思います。
当時の私は修士論文で、埋立地に関する研究をしていました。海面下の土地は領土なので当然国有地です。しかしその頃、知事の許可を受けた民間企業が海面下土地の土砂を浚渫し、臨海を埋め立てて新たな土地をつくったら、その土地の所有権は埋めた民間企業になっていました。これは法律上おかしいのではないかと私は考えていたわけです。
ちょうどその頃、千葉方式というものがありました。これは千葉県が土地開発公社をつくり、そこと三井不動産の江戸さんがつくった民間デベロッパー連合でコンソーシアムを構成して、工事費は民間が負担する代わりに、埋め立て後の土地を比率に応じて保有するというものでした。
これは当時の社会情勢を踏まえると良く考えられていたシステムだったのですが、書生だった私は「世の中はおかしい!」と憤り、三井不動産の社長であった江戸さんに直接話が聞きたいと思って面談を申し込んだのです。間に入っていただいた人がいて、事前に「あまり尖った質問はしないでくれ」と言われていたのですが、実際にお会いして自分の考えをぶつけてみました。まあ若かったのですね(笑)。
すると江戸さんは「君ね、表面だけ見ているとそういうことなんだけれど、世の中はもっと複雑だし、何よりも限られた資源でどうすれば日本を発展させることができるのかという大きな視点が大切なんだよ」と言われました。
そして「君が一番関心のあることは何だ?」と江戸さんがおっしゃるから、私は「今、集団就職や進学などで地方から都会に出てきて、そこで家庭を築き家族を養おうとする人が増えています。しかしそうした人々の住環境は劣悪で、郊外に住んでいる人も満員電車で通勤し、皆が日々我慢をしながら暮らしています。日本経済にとって中小企業やそこに勤めている人々は大切な存在です。彼らの住環境を変えないと次代の日本を支える都市住民が疲弊するのではないかと思っています。幸い区分所有法ができ、霞が関ビルもできました。そこで米国や英国の大都市のように、大規模な市街地再開発によって都心部にハイライズのマンションをつくることで、良質な住まいの提供と職住近接の暮らしが実現できないでしょうか。特にこれから家庭をもとうという若い世代が入居できるマイホームの実現は、産業のあり方が高度化するこれからの時代において非常に重要だと思います」とお話しました。
私の話を聞いて「私もそうなるべきだと思っている」と言われた江戸さんは「コープオリンピア*7のようなものを皆が安く購入できるようになると良いね」とおっしゃっいました。そして「君、ウチを受けてみたらどうだ」と続けられたのです。
当時、私も都市開発によって人のために働きたいと考えていましたが、父が教師だったこともあるので、都市問題・住宅問題を研究対象とした学者か教師になろうと考えていました。こう伝えると江戸さんは「学者や先生も良いが、実際の社会を良くするということもやりがいがあるのではないか。君の知識を活かして法的な制度や規制、そして資金的なところまでを含めて実際の社会を良くしていくのは面白いぞ」と。
それで家に帰って一晩考えてみて「面白そうだな」と思って、翌週に急遽面接を受けることになりました。これが私が三井不動産に入社することになった経緯です。大学院を出た後は故郷に戻ってくると楽しみにしていたお袋には泣かれましたが(笑)。
その当時、日本で不動産屋というとイメージが今ひとつでしたが、江戸さんは米国のようなデベロッパーを目指していました。江戸さんは新しい時代に相応しい素晴らしいオピニオンリーダーでした。
【2】に続く
[注]
*7 コープオリンピア:東京都渋谷区に建つ共同住宅。1965年に完成したこの建物名称は前年に開催された東京オリンピックに因む。当時の高級マンションの代名詞的な存在であった
岩沙弘道(いわさ・ひろみち/三井不動産株式会社代表取締役会長)
1942年愛知県生まれ。1964年慶應義塾大学法学部卒業。1967年三井不動産株式会社入社。1995年同社取締役。1996年同社常務取締役。1997年同社専務取締役。1998年同社代表取締役社長。2011年6月 同社代表取締役会長。