1. TOP
  2. Our Activity
  3. 槇文彦氏(建築家)インタビュー 「歓びが生まれる都市と建築について」

Our Activity

DORA インタビュー

槇文彦氏(建築家)インタビュー
「歓びが生まれる都市と建築について」

1960年に完成した日本と米国における最初の作品から60年。
建築家・槇文彦氏は、都市との関係性や公共空間のあり方に関わる多くの建築作品を発表してきた。
人々が自分の時間を楽しみ、歓びを感じる空間とはどういうものか。
これまでの作品で考察されてきたことを中心に、槇氏にお話を伺った。

ヒューマンスケールの街の魅力

Q. 私たち(一社)デザインオンレスポンスでは、街づくりに関わる様々な知見やノウハウを広く社会と共有し、それらを次世代に受け継いでいくことで、街がより心地良い環境となっていくことを目指しています。今日はそうした観点から、槇先生にお話を伺えればと思います。

槇文彦氏(以下、槇)私は建築家としてこれまで100件ほど仕事をしてきましたが、世の中の様々な事象に達見をもっている訳ではありませんので、そうしたプロジェクトを通して私が考えてきたこととしてお話できればと思います。

Q. ありがとうございます。ではまず代官山の「ヒルサイドテラス/ヒルサイドウエスト」(1969~1992年/1998年)(以下、ヒルサイドテラス)に関わることをお伺いさせていただきます。あのようにいくつかの建物が集まり、その間の外部空間を含めて人々が賑わう「群として空間」を街につくるうえでのお考えを教えてください。

「ヒルサイドテラス」は皆さん良いと言ってくれますが、あのプロジェクトは特殊な例です。ご存知の通り、「ヒルサイドテラス」は旧山手通りという広い道路に面していますが、これは朝倉家の先先代・虎治郎氏が「これからの都市の道路は幅が広い方が良い」と考え、率先して旧山手通りを広げられた結果です。また、その当時このあたりに住んでいた政治家の「道路は広げても第一種住居専用地域*1(高さ10m・容積率150%)はそのままにしておいた方が良い」という考えから、敷地周辺の用途地域は変更されないかたちとなっていました。第一種住専では店舗の面積は制限されますが、私が現場を歩いてみた結果、道路に接する部分に半地下の店舗を設けた方が良いと考えました。そこで団地として都に用途緩和の許可申請を行いました。ただ団地として申請すると建蔽率の抑制や日照の確保、公開空地や敷地内の道の配置に関して、より多くの規定を守らなければならなくなります。しかしこれらの制約によって、結果として低層の建物群とその間の外部空間による良好な環境をつくり出せた訳です。このように「ヒルサイドテラス」はあくまで特殊な例であって、「別の場所でもつくって欲しい」と言われてもなかなか難しいのです。

代官山の「ヒルサイドテラス/ヒルサイドウエスト」(1969 ~ 1992 年/ 1998 年)。1965 年に米国から帰国して東京に設計事務所を設立した槇氏が、その後まもなく手掛けはじめた計画である。四半世紀に渡り段階的に開発されたこの複合施設は、代官山という街のイメー ジをつくるものとなった(© 新建築社)

代官山の「ヒルサイドテラス/ヒルサイドウエスト」(1969 ~ 1992 年/ 1998 年)。1965 年に米国から帰国して東京に設計事務所を設立した槇氏が、その後まもなく手掛けはじめた計画である。四半世紀に渡り段階的に開発されたこの複合施設は、代官山という街のイメー ジをつくるものとなった(© 新建築社)

代官山の「ヒルサイドテラス/ヒルサイドウエスト」(1969 ~ 1992 年/ 1998 年)。1965 年に米国から帰国して東京に設計事務所を設立した槇氏が、その後まもなく手掛けはじめた計画である。四半世紀に渡り段階的に開発されたこの複合施設は、代官山という街のイメー ジをつくるものとなった(© 新建築社)

ご質問に対するより一般的なお話として、名古屋の街の一部を表したこの図を使ってご説明します。この図からわかるのは、日本の街は大通りに沿って大きな高層の建物が建ち、街の中の比較的小さな道沿いには規模の大きくない建物が残るということです。ただこの規模の大きくない建物も決してスラムではない。これはバリー・シェルトンというオーストラリアの都市計画家が『日本の都市から学ぶこと』(2014年/鹿島出版会)という本の中で記していることですが、私たちはこれをアンパンに例えて「皮とあんこ」と称しています。このように日本の都市においてはヒューマンスケールが残る街の「あんこの部分」に大きな可能性があると思っています。

都市計画家・バリー・シェルトン氏による名古屋の街のスケッチ

Q. ニューヨークなどでは超高層ビルが建ち並ぶメインストリート、つまり「皮の部分」も賑やかですね。

 そうした賑わいは東京にも多くあり悪くないと思います。ただニューヨークで言うと旧市街のようなところがもっと街に必要で、日本においては図のあんこのような部分がそういう場所になり得るのではないかと思っています。
私は散歩が好きですが、路地などを使って斜めに歩けることが東京の大きな魅力です。街で言うと上野や谷中界隈などはヒューマンスケールで、時代毎につくり上げられてきた空間の重層性も感じられるので、散歩していてとても楽しいですね。

Q. そうした街は歩いていると建物の中の様子も感じられますね。

 ええ。銀座も江戸時代からの路地が多く残っていて散歩の楽しい街ですが、私が若い頃はお茶屋などもあって夜になると様相が変わってロマンチックな雰囲気がありました。残念ながらそういうものはなくなってしまいましたね。

都市空間のシェアリング

Q. 今後、ITの発展が社会により大きな影響を及ぼしていく中で、街や建築、そしてコミュニティにおける人と人の交流のあり方についてどのようにお考えでしょうか。

 私が「東京電機大学 東京千住キャンパス」(第Ⅰ期:2014年/第Ⅱ期:2017年)で考えたことは一種のシェアリングで、「敷地と周辺環境を隔てる塀のないキャンパス」として設計しました。塀がないため、地域の住民が自由に通り抜けることができるこのキャンパスでは大学関係者や地元住民の共生をテーマとしました。この新しいキャンパスができたことで、地域も活性化しているようです。

Q. 街に人がいてもお互いにバラバラですとそこに何も生まれません。「東京電機大学」のように街の人々も自由に使うことができる空間があると、そこに様々な交流や賑わいが生まれますね。

 このキャンパスには広場を設けているのですが、この広場に近隣の保育所の先生が子供たちを連れて遊びに来るという状況が生まれました。このような交流や楽しみ方が広がっているのはとても嬉しいですね。このような経験で申しますと、これからの時代はシェアリングということがひとつの重要なキーワードになると思っています。

「東京電機大学 東京千住キャンパス」(第Ⅰ期:2014 年/第Ⅱ期:2017 年)。第Ⅱ期工事では保育所、学習塾、スポーツジム、子ども向 け理科教室なども整備され、市民が楽しむことができる機能がより充実した(© 北嶋俊治)

「東京電機大学 東京千住キャンパス」(第Ⅰ期:2014 年/第Ⅱ期:2017 年)。第Ⅱ期工事では保育所、学習塾、スポーツジム、子ども向 け理科教室なども整備され、市民が楽しむことができる機能がより充実した(© 北嶋俊治)

「東京電機大学 東京千住キャンパス」(第Ⅰ期:2014 年/第Ⅱ期:2017 年)。第Ⅱ期工事では保育所、学習塾、スポーツジム、子ども向 け理科教室なども整備され、市民が楽しむことができる機能がより充実した(© 北嶋俊治)

自分の時間が楽しめる空間

Q. 槇先生は「都市において場所性をデザインすること」について、どのようにお考えでしょうか?

 それぞれの場所から何を読み取りどのようにデザインするのかについては、それぞれの場のデザインを手掛ける建築家次第です。
私が経験した中で「スパイラル」(1985年)を例に申し上げると、元々この敷地は周囲に多くの看板が立ち並び、都市によくあるような利用の難しい場所でした。そこでエントランスホールに足を踏み入れると薄暗いカフェを通して、奥に明るい天空光のギャラリーと螺旋状のランプが目に入り、人々が光を求めるように自然にギャラリーに導かれる構成としました。また5階奥にある小庭園は青山通り側と全く異なる、樹木に包まれ静寂に包まれた空間として設計しています。
このように「スパイラル」では、周辺から断絶した特別な空間として構成することが、元々何でもない場所を生まれ変わらせた大きな要因となりました。

「スパイラル」(1985 年)。ギャラリーでは常に様々な展示が行われており、カフェは付近で働くアーティスト達の利用も多い。写真4 枚 目は建設前の敷地の様子(© 北嶋俊治/ 4 枚目のみ、槇総合計画事務所撮影)

「スパイラル」(1985 年)。ギャラリーでは常に様々な展示が行われており、カフェは付近で働くアーティスト達の利用も多い。写真4 枚 目は建設前の敷地の様子(© 北嶋俊治/ 4 枚目のみ、槇総合計画事務所撮影)

「スパイラル」(1985 年)。ギャラリーでは常に様々な展示が行われており、カフェは付近で働くアーティスト達の利用も多い。写真4 枚 目は建設前の敷地の様子(© 北嶋俊治/ 4 枚目のみ、槇総合計画事務所撮影)

「スパイラル」(1985 年)。ギャラリーでは常に様々な展示が行われており、カフェは付近で働くアーティスト達の利用も多い。写真4 枚 目は建設前の敷地の様子(© 北嶋俊治/ 4 枚目のみ、槇総合計画事務所撮影)

もうひとつ例として大阪の「ロレックス中津ビル」(2009年)についてお話します。ここでは周辺環境を考慮して、基準階のオフィス部分ではあまり外が見えないようにして、逆に最上階の食堂は眺望を楽しめる空間としてデザインしました。

「ロレックス中津ビル」(2009 年)(© 北嶋俊治)

「ロレックス中津ビル」(2009 年)(© 北嶋俊治)

「ロレックス中津ビル」(2009 年)(© 北嶋俊治)

Q. ふたつの作品を拝見すると建物自体に所有者はいるものの、そこを訪れたり利用する人々が自分の時間を楽しめる空間としてデザインされていることが印象的です。こうした空間をしっかりつくり込むことが街にとって非常に重要だと感じました。

 「スパイラル」も完成から35年が経ち、時代と共に周囲の状況や建物内部のテナント等は大きく変わりました。しかし青山通り側のエスプラナード(大階段)だけは今も変わりません。椅子の置かれたこの場所で本を読んだり、通りを眺めたりする人はいつの時代にもいて、ここだけは街の中で変わらない特別な場所となっています。以前私がオーストラリアで講演をした時、講演後に若い女性がいらっしゃって「東京に行った時はいつもここで本を読んでいます」とおっしゃられたこともありました。このような「孤独をエンジョイできる場所」が都市の建築においては非常に大切であり、都市にこうした場をつくり出すことは、どのプロジェクトにおいても私たちが重視している点です。

「スパイラル」(1985 年)の青山通り側に配置された、1 階から3 階を結ぶエスプラナード(大階段)

Q. そうした空間を多様なかたちで街の中に組み込んでいくと、様々な人々が自分の居場所をもてる街になっていきそうですね。こういう空間をつくっていこうという意識がもっと多くの建築家やディヴェロッパーの間で共有できると、日本の街の魅力がより高まっていくかもしれませんね。

 実は今、仲間と一緒に『(仮)みんなのパタンランゲージ』という本をつくろうとしています。クリストファー・アレキサンダーの『パタンランゲージ ー環境設計の手引ー』(1984年/鹿島出版会)は、彼自身の考えに基づいた都市デザインの手法について書かれたものです。私たちは先ほど申し上げた「スパイラル」のエスプラナードなど、様々な建築家がデザインした「街の人々から評価されている空間」を一冊に集めたいと考えています。都市や建築のデザインにおいて一番重要なのは「一般の人にどう評価されるか」ということです。人はどういう場所を好み集うのかという共通性は必ずあると思います。そういう空間の実証例、つまり「時間の審判を経た空間」を集めてみようという試みです。

Q. 思いつくところですと、大きな樹の下の「木漏れ日を感じる場所」などは多くの人が心地良いと感じるかと思いますが、そういう人間の心の奥底にあるものと調和するような空間のあり方が、槇先生の『(仮)みんなのパタンランゲージ』から見えてくるのではないかと楽しみにしています。本日はありがとうございました。

[注]
*1:第一種住居専用地域は、低層住宅や店舗兼用住宅などの建物のみ建築を許可された地域。都市計画法の改正(1992 年)によって、第一種・第二種低層住居専用地域に類別された。「ヒルサイドテラス」周辺は1990 年代にこの規制が緩和された。

2024年6月6日、槇文彦先生が逝去されました。
本インタビューにて、貴重なお話をいただきましたことに心より感謝を申し上げます。
槇先生の多大な功績に敬意を表し、謹んでご冥福をお祈りいたします。

一般社団法人デザインオンレスポンス

槇文彦(まき・ふみひこ/建築家)

1928年東京都生まれ。1952年に東京大学工学部建築学科を卒業後、アメリカのクランブルック美術学院及びハーバード大学大学院の修士課程を修了。米国での活動の後、1965年に帰国して槇総合計画事務所を設立。
また東京大学教授として1989年まで教鞭を執る。
1993年建築家にとって最も名誉あるプリツカー賞を受賞。2011年アメリカ建築家協会(AIA)から贈られるゴールドメダルを受賞。
主な作品に「ヒルサイドテラス」、「京都国立近代美術館」、「幕張メッセ」、「東京体育館」、「マサチューセッツ工科大学新メディア研究所」、「4 ワールドトレードセンター」など多数。
2024年逝去。

http://www.maki-and-associates.co.jp/index_j.html

Archives