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Interview

建築家シーザー・ペリとの対話

魅力ある都市の構成に貢献する
「デザインオンレスポンス」という設計手法。
当協会は、この手法を育んできた
米国の建築家シーザー・ペリ氏に
建築家としての思想のルーツ、
そして都市や建築の理想的なあり方についてお話を伺いました。

都市に貢献するデザイン

建築家シーザー・ペリを育んだ思想

貴方が建築家になろうと思ったきっかけは何でしょうか?

シーザー・ペリ(以下、ペリ)

若い頃、私は何を勉強したら良いのか分かりませんでした。故郷であるアルゼンチンのサン・ミゲル・デ・ツクマン(以下、ツクマン)には建築家という存在はいませんでした。しかし大学生の時、ある講座で昔の建物を描くという仕事を知ってこれをやってみたら、すごく面白かったのです。描くことだけではなく、その建物が何なのか、中に何が入っていたのか、人々の生活にどんな影響を与えたのかを考えることに夢中になりました。それがきっかけですね。60年か、ほとんど70年も前の話ですが(笑)。今でも建物の絵を描くのは大好きですよ。

建築家として、貴方に影響を与えた方はどなたですか?

ペリ

大きな影響を受けた方は2人います。それはル・コルビュジエ*1とイーロ・サーリネン*2です。ル・コルビュジエの作品やその思想についてはツクマンで学びました。当時、ツクマン国立大学の建築学科は先進的なモダニズムについて熱心に研究しており、その教育はようやくそれを受け入れはじめた米国の多くの大学よりもはるかに進んだものでした。ル・コルビュジエやインターナショナル・スタイル*3には、スプーンから家具、建築、そして都市まですべてを網羅するセオリーがありました。当時極めて革新的だったこの考え方を学生時代に学べたことは私にとってとても幸運でした。ル・コルビュジエの作品や理論を通して、私は建築の考え方や可能性を学び、それが今日に至るまで私の思想のルーツとなっています。特に建築をその時代の技術に応えさせること。これこそ近代運動の根源ですが、これは極めて重要なことだと思っています。

その後、26歳で渡米した貴方は、イリノイ大学を経てイーロ・サーリネンの事務所で働きますね。

ペリ

イーロ・サーリネン……、私たち所員は皆「イーロ」と呼んでいましたが、彼の下で働く機会を得た私は、ル・コルビュジエと同じくらい大きな影響を彼から受けました。彼から学んだ、設計に対する考え方、そしてその設計が常に最善の解でなくてはならないということは、今も私の考えの礎を成すものです。 イーロの作品はとてもフォトジェニックでしたし、彼自身『TIME』の表紙を飾るなど、当時米国でとても人気がありました。イーロは「違い」を強く求め、自分が設計するものを他の誰とも違うものにしようと、また自身のあらゆるプロジェクトが「固有であること」を心がけました。これは彼が受けた彫刻家になる教育が影響しているのかもしれません。
イーロのデザインは、それぞれのプロジェクトのプログラムや満たさなければいけない要素から導き出されたものでした。決して形が先に存在していた訳ではありません。その地域の気候風土や文化、敷地の地形や特徴、近隣の建物、景観などを勘案しながら自然に形を取り出していたのです。もちろん、そこにモダニストとして重要であった「時代の精神」も吹き込みながら。彼はまたクライアントの話に熱心に耳を傾け、彼らの求める機能を満たすだけでなく、そこにクライアントのイメージにぴったり合うようなデザインをつくり上げました。

イーロ・サーリネンが手がけた「MITオーディトリアム・チャペル」(1956年) ※❶

イーロは若くしてお亡くなりになりましたね。

ペリ

ええ。病気がなければあと30~40年は仕事ができたと思います。そしてもっと多くの素晴らしい作品を残したことでしょう。私はイーロのすべてに賛同しているわけではありませんが、彼が驚くほど勤勉で、いつも最善の設計をするために努力を尽くしていたことは知っていますし、それをとても尊敬しています。
このように私はル・コルビュジエとイーロ・サーリネンから、一方は学校で、もう一方は実務を通して学びましたが、恐らく後者の方がより重要だったのでしょう。

イーロ・サーリネンが手がけた作品。左から「イェール大学インガルズ・ホッケーリンク」(1959年) ※❶、「ジェファーソン記念碑」(1964年) ※❶

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